栗山監督が斎藤佑樹をあきらめない理由

よく、斎藤祐樹について、「栗山監督はなぜ、何度もチャンスを与えるんだろう」とか、「他の頑張ってる選手がやる気をなくすのでは?」といったコメントを見かけるが、それはお門違いというものだ。

 

栗山監督からしてみると、

「今年は優勝あきらめた」とは言えても、「斎藤祐樹の事はもうあきらめた」とは言えない。なぜかといえば、日ハムは育成をうたう球団だからである。

 

日ハムの選手は放っといても勝手に成長する。危機感がハンパないからである。

ちょっとくらい活躍しても、【育成球団】の看板のもとに、一定の年齢を超えると出場機会が激減しかねない。ちょっとくらいの活躍じゃ、足りないのである。

 

めっちゃ活躍して、他球団へ自分を高く売り込む(主に巨人)しかないのである。

そうでなければ、出場機会が減ったり、減らされた結果としてパッとしない年棒を

受け入れて、引退までの余生を過ごすしかない。

 

そんな様を見せつけられた選手たちの危機感は他球団と比べて少なく見積もっても2倍はあるだろう。成長しないわけがない。

 

経験を積んだ選手にはどんな球団でも配慮が必要になるし、それは時として「しがらみ」として各球団の【トータルの総合力】を引っ張る事があるが、日ハムにはそれがない。したがって、監督はしがらみに縛られない采配が振るえるので(少なくとも、他球団よりは縛られないので)、純粋な采配によるヒット率は高くなる。

 

話を戻すと、そんな中で斎藤佑樹の事をあきらめる、という選択肢はない。

どう転んでも、【損はない】のである。

 

成長すれば、それこそウハウハだ。 「あんなにだめだった斎藤佑樹でも活躍するようになった」、という事で育成球団の大看板が輝くってものである。

 

一方、「やっぱり成長なんてしない。ダメダメじゃん」でも、全然かまわないのである。「どんなにだめな選手でも、辛抱強く指導する、何度でもチャンスを上げる、それが育成日ハムです!」と歌える。

 

一方、あきらめたりすればそれこそ、「所詮、才能のあるやつが結果を出しているだけで、ないやつは花開かない」といわれでもしようものなら、次の年から育成日ハムの看板を下ろさなければいけない。

 

ドラフトでプロ拒否した選手を強行指名するような事も出来なくなってしまう。

 

結果が出なかった時の栗山監督のコメントを見ると、時々「そりゃ無理があるんじゃないか」と感じる諸兄、その感覚に間違いはない。

「お宅のお子さん、希望のxx大学は無理ですよ」なんて言ってたら、家庭教師なんて務まらない、何か、「大丈夫です」という言葉をひねり出すしかない。

 

といわけで、あきらめる、なんて選択肢は今までも、そしてこれからも、ないのである。斎藤が自分から「もう無理です」と言うか、何か奇跡的に成長するか、そのどちらかしかないのである。合掌・・